癒しの部屋へようこそ

最近はコロナの影響でメンタル面に影響が出ている人が多いのではないでしょうか?私もそのうちの一人です。そんなメンタル弱めの弱音を、心理学を通して綴って行きたいと思います。

優生思想 ~ 植松聖大量殺人事件の心理

こんにちは、orionです。
最近、体に障害を抱えた人を生存の価値の観点から殺してしまう事件が増えています。
相模原市で起こった「やまゆり園」の障害者殺人事件もそうでしょう。


そのやまゆり園で起こった事件の犯人植松聖被告は「優生思想」の持ち主だったといいます。


優生思想


人間は優と劣とがあり、この世で優遇されるのは優生側だと過剰に思い込む思想のことを言います。


植松被告は「役に立つ人間」かどうかで優劣を判断していたようです。ちなみに植松被告は自分自身を「あまり役に立つ人間ではない」と思っていたようです。


さてこの「役に立つ人間」というのが以外にも厄介なもので、だれを基準に役に立つ人間と決めているのか、


究極的にいえば「自分のことは自分で出来る」これだって周囲の人間からしてみたら十分役に立っていることだと思います。


植松被告の「役に立つ人間」というのは非常にレベルの高い役に立つ人間を想像していたのでしょう。


これが優生思想の考え方の特徴です。


劣等感


優生思想を抱えた人間は劣等感の強い人間とも言えます。


自分に高い基準を設定して、それにそぐわなかった場合、現実の自分の受け入れができなくなり、やがてこれが劣等感となるわけです。


その劣等感を普段は心の奥深くにしまい込んでいるのですが、その劣等感を刺激する人物に出会うと過剰に劣等感の自覚を恐れて嫌悪感を示してしまうのです。


これが優生思想の人間が劣性の人間を排除しようとする考え方の元なんですね。


事実植松被告も「自分はあまり役に立つ人間ではなかった」と話しています。
つまり、自分自身の評価も殺された障害者たちと同類の役に立たない人間と思っていたのです。


自我肥大症


先程劣等感のお話をしました。
劣等感の強い人は本来の自分を否定的に評価しているので、他人から高く評価されなければならないと思っています。


言い換えれば他人の評価から成り立っている自分は他人からの評価がすべてなのです。
それは他人から低く評価されることには過剰に恐怖感を抱くことでしょう。


仮に男性であれば弱い自分や優しい自分をけなされてしまうことに普通の人よりも恐れを抱くのです。だから過剰に強くあらねばと思ってしまいがちです。


植松被告は超人伝説にあこがれを抱いていました。


植松被告の全身入れ墨を施す攻撃的な人格は、教師の立派な親にあこがれを抱く自分とのギャップから自分のことを低く評価してしまうことへの防衛的な姿勢の表れだったのかもしれません。


実際の自分を生きる


誰かの理想の自分を生きることは実際の自分を感じることなく生きてしまいます。
誰かの役に立つこれも時には大事でしょう。
ですが自分の生きる道が誰かの役に立つ事だけが目的では他人からの称賛で自分を形成してしまいかねないことにもつながります。


アイデンティティーの形成は自分を生きる事にあるのです。


失敗して成功して生きる。


他人に優越して生きようとする事はだれかの基準で生きている証拠ではないでしょうか。優生思想の考え方は逆に言えば他人評価の依存的な考えといえると私は思います。


ぜひ生きている実感を自己実現していきましょう。

社会的距離の問題について

おはようございます。
orionです。


この頃考えることがあります。
社会的距離感についてです。


社会的報酬


私の地域では密なつながりを求める習慣があり、それが過剰なんではないかなと思うんです。


つながりと支配は違うと思いますか?


社会的な報酬を強く望むものは妬みや嫉み感情が強く支配欲も強くなる


と聞きました。


つまり社会を「こうあるべき」という思いがが強い人ほど、人を正否の感情で支配しやすくなるし、社会的活動も高くなると言う事です。


社会的な距離感というのは、近いほうがいいわけでも、遠いほうがいいわけでもないと思います。


お互いが、自分の思い通りにはいかない存在だと意識でき、また他人を個別の存在だと尊重できる環境が社会的距離感だと思うんです。

支配欲


支配というのは「間接的攻撃」です。


不安を抱えている人が支配という形で自分の心を癒している場合、


何らかの原因でその支配ができなくなった場合は攻撃に転じます。


【親が子供を虐待する原因はそこにあるわけです。】


つまり不安の解消方法が「支配や攻撃」ということなのです。


そこで社会的距離感に戻りますが、社会とのつながりが「支配」いう形であった場合は


それは不安が増す社会ということでもあります。


社会的距離感の正体

余談ですが


私が地域とつながるには「ある一定の条件」があるようで、それは誰かの子分になって「みすぼらしい」を発揮しないと社会的にあなたを愛せないと言っている人がいました。
または有り金をはたけ。等々


この「愛せない」が曲者で、愛せないではなくて支配できないの間違いだと思うんです。


つまり支配できないのなら嫌いだ!という攻撃に転じたわけです。


言葉巧みに人を誘導して、自身の不安解消のために「支配」する人間を作る。


ましてや障害を抱えていて人の支えが必要な人に、自己表現のために弱者を支配する。


自己の過剰な要求を満たす、これが社会的距離感の正体であってはならないと思うんです。

日本の精神医療の現状 ~ クスリの多用の怖さ(part3)

こんにちはorionです。


今日も雨が降っています・・


今年の夏は雨のせいかとてもすずしいですね。
汗をかく暑い夏が苦手な私はとても過ごしやすくてうれしです。


さて、日本の精神医療の現状(part3)まで勢いに乗って書いてしまいましたが引き続き今回もお付き合いください。


前回は医療モデルについて書かせていただきました。


医療モデルとは、精神病患者、発達障害患者、精神医療がたづさわる患者さんたちを「病人」として扱う治療環境のことを言います。


当然「病人」として扱う事で薬を服用しさせてしまう事や、偏見の目にさらされてしまうリスクが生じるわけですが、


精神的な病気が発症するには、それなりの原因があるはずです。そこに着眼せず症状だけを見て「薬を服用させる」所に問題があるのではないか、という声が多数上がっている現状もある様です。


これからの改善点

社会モデル

いろんな医療現場で社会モデルと聞くことがあるかもしれません。


社会モデルとは


『医療モデルが病気は個人の性質により発症するもので、個治療すべきは個人。としてみる方針に対して社会モデルは、病気を発症してしまうのは社会的な性質が原因によるもで、改善点は社会。という考え方です。』


前回のpart2でも少しお話ししましたが外国では精神病患者も個性として受け入れている環境があるので、患者と社会的な線引きはあまりないそうです。それが結果として精神病患者の回復につながっているのでしょう。


日本でも、精神病患者が増え続けている現状を考慮すれば、社会全体で患者を受け入れていく必要性がこれからはあるのではないでしょうか。


原因を取り除く


先程お話したように、精神医療は自分の内的要因が問題なのか、誰かの外的要因が問題なのか、原因があって発症する事がほとんどです。
だとしたら、発症に至るまでの原因を知り、その要因を取り除くことは薬を使わないで病気を治す一番の特効薬と言えるでしょう。


食事療法


意外と知られていないかもしれませんが、食事療法が精神病には大きく効果があるようです。
やっぱり脳のセロトニンというホルモン物質の分泌不足から起こる訳ですから、日頃から食事で脳に栄養を与えることはとても大切です。


では、どんな食事をしたらいいのでしょう。


主にはセロトニンは豊富なタンパク質のある食材の中に入っているようです。
例えば、肉類、魚類(特にカツオ)、チーズなどの乳製品、卵、ナッツ類。


これらの食材はたんぱく質を多く含んでいるのでセロトニンを作りやすい食材と言えるでしょう。ナッツ類はヒマワリの種にセロトニンの元であるトリプトファンが多く含まれていると聞きましたが、


それを聞いて、ヒマワリが大好物な家のハムスター🐹は確かにいつも幸せそうだなと思いました。(笑)


あと、野菜やヨーグルトなどの発酵食品を食べて腸活をしてください。セロトニンの80%は腸からできます。


腸が活発な人は全てにおいて活力があります。美肌効果もありますよ。


そして栄養や酸素を脳にしっかり届けてくれる血液に良い食べ物を(DHA  EPA  や鉄分)、血流をよくするために適度な運動をすると良いでしょう。



一人一人に寄り添った社会へ


やはり薬は急を要するとき以外の服用はあまり良いとは言えないでしょう。


出来る事なら、社会全体が一人一人に寄り添い、患者を受け入れていくため着地点をさがし受容していく事が何よりも回復していくための手立てなのかなと思います。


枠にはめて考えやすいのは日本人の特徴だと前作でお話ししましたが、レッテル貼りは人間にとって、差別しやすい環境になってしまうと思うんです。


正解を求めやすい現代ですが、正解だけを求めて生きていくことは時には残酷になりやすい時もあります。正解よりも人に寄り添った社会を目指していく事が良い結果につながるといいと思っています。


長々とpart1からpart3まで読んでくださってありがとうございました。