こんにちは、orionです。
最近、体に障害を抱えた人を生存の価値の観点から殺してしまう事件が増えています。
相模原市で起こった「やまゆり園」の障害者殺人事件もそうでしょう。
そのやまゆり園で起こった事件の犯人植松聖被告は「優生思想」の持ち主だったといいます。
優生思想
人間は優と劣とがあり、この世で優遇されるのは優生側だと過剰に思い込む思想のことを言います。
植松被告は「役に立つ人間」かどうかで優劣を判断していたようです。ちなみに植松被告は自分自身を「あまり役に立つ人間ではない」と思っていたようです。
さてこの「役に立つ人間」というのが以外にも厄介なもので、だれを基準に役に立つ人間と決めているのか、
究極的にいえば「自分のことは自分で出来る」これだって周囲の人間からしてみたら十分役に立っていることだと思います。
植松被告の「役に立つ人間」というのは非常にレベルの高い役に立つ人間を想像していたのでしょう。
これが優生思想の考え方の特徴です。
劣等感
優生思想を抱えた人間は劣等感の強い人間とも言えます。
自分に高い基準を設定して、それにそぐわなかった場合、現実の自分の受け入れができなくなり、やがてこれが劣等感となるわけです。
その劣等感を普段は心の奥深くにしまい込んでいるのですが、その劣等感を刺激する人物に出会うと過剰に劣等感の自覚を恐れて嫌悪感を示してしまうのです。
これが優生思想の人間が劣性の人間を排除しようとする考え方の元なんですね。
事実植松被告も「自分はあまり役に立つ人間ではなかった」と話しています。
つまり、自分自身の評価も殺された障害者たちと同類の役に立たない人間と思っていたのです。
自我肥大症
先程劣等感のお話をしました。
劣等感の強い人は本来の自分を否定的に評価しているので、他人から高く評価されなければならないと思っています。
言い換えれば他人の評価から成り立っている自分は他人からの評価がすべてなのです。
それは他人から低く評価されることには過剰に恐怖感を抱くことでしょう。
仮に男性であれば弱い自分や優しい自分をけなされてしまうことに普通の人よりも恐れを抱くのです。だから過剰に強くあらねばと思ってしまいがちです。
植松被告は超人伝説にあこがれを抱いていました。
植松被告の全身入れ墨を施す攻撃的な人格は、教師の立派な親にあこがれを抱く自分とのギャップから自分のことを低く評価してしまうことへの防衛的な姿勢の表れだったのかもしれません。
実際の自分を生きる
誰かの理想の自分を生きることは実際の自分を感じることなく生きてしまいます。
誰かの役に立つこれも時には大事でしょう。
ですが自分の生きる道が誰かの役に立つ事だけが目的では他人からの称賛で自分を形成してしまいかねないことにもつながります。
アイデンティティーの形成は自分を生きる事にあるのです。
失敗して成功して生きる。
他人に優越して生きようとする事はだれかの基準で生きている証拠ではないでしょうか。優生思想の考え方は逆に言えば他人評価の依存的な考えといえると私は思います。
ぜひ生きている実感を自己実現していきましょう。